最果て

走らなければならなかった。走りたかったのではなく、おれは身一つでこの足を動かさなければいけないことを、沸々と感じた瞬間には土手に向かっていた。


川土手があること、この街で唯一好きなところだ。とくに近ごろの、春を残して夏を先取りした風と湿度が心地よくてたまらない。もしかしたら一年でいちばん好きな風かもしれない。


土手に行く。むしゃくしゃするとき、重苦しさがぬらっと湧いてくるとき、自分では制御の効かないものに駆られたとき。土手に行く。音楽に酔う。バチボコに硬いコンクリに腰を下ろす。水面を眺める。風に吹かれる。ランナーを目で追う。


この土手があったおかげで自分を取り戻せた夜がいくつあっただろうか。もしこの街に土手がなかったら、おれはどうやって生きていけただろうか。外に繰り出すのか。散歩ですむのか。走ってしまうのだろうか。走れば、おれはどこにでもいかれるのだろうか。


中土手を走った。小学生の時、中土手の最果てまで幼なじみとチャリ走らせて東京湾を見たことを思い出した。また見たいと思ったのだ。今夜、東京湾を。

足を上げる。体が世界から離れる。浮いた足を前に、前に。アスファルトが硬い。文活5月号「はしる」を思い出す。"6人分のはしる"と"おれ"がはしる。

久しぶりに走ったもんだから、簡単に足が悲鳴を上げる。体を動かすことはそんなに辛いかおれちゃん。リモートワークで怠けた体は言うことを聞かない。走ったり歩いたりしながら東京湾を目指した。歩みを止めることはなかった。決して止めてはいけなかったのだろうし、おれには止めるすべも心持ちもアティチュードもなかった。

最果てに着いた。一時間半かけて十何年ぶりに足を踏み入れたそこは一体どの辺りなのか、Googleマップを開く。そこは東京湾ではなかった!荒川中洲南端という、文字通り"端"には来たものの、おれが期待した湾岸などではなかった。腰掛けたテトラポッドの目の前で荒川と中川が交流している。なんとなく憶えていた気がする。この光景を。初めてみるものはどんなものでも新鮮だった小学生。東京でみられる景色のなかではそれ相応の壮観を"東京湾"と呼んでしまうのも仕方あるまいと思いを馳せた。ゆっくりと立ち上がって、一時間半かけて来た道を戻る。こういう、子どもの時に培った経験や考え方がひっくり返されたり、ねじ曲げられたりするのが大人。これは悲観的観測ではなく、社会で生きる大人の巡り合わせ。社会の歯車みたいな顔をして、みんなそうやって生きて走ってる。


今夜おれは、走らなければならなかった。先がないところまで。