桜なんか撮ってなにになる。

なんにもならないな、と思いつつ毎年馬鹿みたいにシャッターを切っている。

 

いまではフィルムカメラが好きだが、最初からフィルムが好きになったのではなかった。カメラは、大学生になってコジマの在庫処分で安売りしてたCanonのミラーレス一眼を買ったのが最初。たしかポイント込みで5万くらい。本当安かった。

 

人に誇れる趣味なんか何一つねえなと引け目を常に抱えていた20歳(受験浪人したのでもう成人!)。大学は建築科に入ったから建築物をたくさん撮影した。やってるうちにたのしくなり、建築を見る散歩をしながら友達や先輩を撮ったりした。

 

みんなカメラを向ければにこっと笑って歯を見せてくれるか恥ずかしげにピースサインをしてくれる。仲良くない男子でも変顔してくれた。こいつけっこうお茶目なんだなと思ったり、こいつ豪快な性格のわりに恥ずかしがりやなんだなとか思ったりした。

 

けっきょく大学は辞めてカメラもメルカリで売っちゃうんだけど、半額の25,000円で売れたから、25,000円で「青春」とラベリングできる思い出がつくれたのならまあ十分に元取れたかなと淡白に考える。

 

そこからフィルムカメラに移行した。きっかけはたしかTwitterで奥様の写真をフィルムで撮られている一般男性のアカウントを知ったとき。(写真が)あまりにも綺麗で、飾ってなくて、あたたかだった。フィルムと日常生活ってこんなに親和性あるんだと確信。

カメラもその人と同じOLYMPUSOM-1という機種にした。かわいくてピカピカで精悍な見た目をしている、そんな相棒だ。

 

その人の写真も好きだったが、なにより写真に対するスタンスが好きだった。

 

「僕は自分の写真を上手いとは思わないけど自分の写真が大好きです」

 

そう、写真撮ってる人ってみんなそうだと思う。おれも自分の写真は上手いとは思わない。構図のバリエーションがなくて、似たような写真ばっかり。ミラーレス使ってたときはオートモード以外使ったことない。でも自分が撮った写真は好き。確実に言える。

 

写真で何を重んじるべきかって上手い下手じゃなくて、その一枚が生まれるまでの過程だよ。そのとき一緒にいた人、その日の気温、風の強さ、差し込む陽光、落ち葉を踏む感触、じっとしてくれない猫、曇り空のお花見。そういう五感で感じる記憶が全部鮮明に閉じ込められるから写真はいいの。構図がどうとか値段がいくらとか、まじでお前がカメラに対するピントあってないよ。

 

でも、桜の写真ってなんにも意味ないなと思う。桜の写真はほとんど見返さないから。写真で見る桜は全然きれいじゃない。桜は肉眼で見たときの鮮やかなピンクがいちばんきれい。そうは思いつつ、今年は一人で中目黒に散歩しに行った。

 

27枚撮りのフィルムを相棒に装填。春うたがんがん耳に鳴らして目黒川の桜並木を歩く。サンボマスター、春なんです。NICO、April。aiko、メロンソーダ。ああ最高。今年はyonige春の嵐がぐっとくるな。去年ぜんぜんハマらなかったのに。年を重ねて好みの音楽が増えることに口角が上がる。あっという間にひと駅分を歩いた。

 

帰宅してフィルムを取り出そうとすると、しかし写真は撮れてなかった。これがフィルムカメラの落とし穴。フィルムがちゃんと装填できていないとフィルムを巻き上げたときに中でフィルムが回ってくれない。つまりこれは、装填時にフィルムの巻き上げを確認しなかった自分のせい。ほかのだれでもない、自分のせい。

 

何度かこの経験はしていて毎回かなりダメージをくらってしまうが、今回はまあいいかと数日後思えた。限られた27枚分の撮影に費やした労力が水の泡になってもそう思えるのは、これも「失敗した」記憶としておれの中に宿るからだ。全然おれは大丈夫だ。

 

写真を撮ることって、きっとひとりよがり。自分が収めたいものをレンズのフィルターを通してシャッターボタンを押す。それは勝手にはじまる恋愛みたいなもので、自分が対象を愛しているという証明をしたいんでしょ、きっと。

 

だったら27枚分のシャッターを押す人差し指に心を込めたのだから、この記憶はおれだけの愛すべき思い出。心が憶えていれば大丈夫。心のシャッター押して忘れないようにってaikoパイセンも言ってるし。

 

来年の自分はどこへ行って桜を撮るんだろう。性懲りもない自分だけど、フィルムの装填だけは気をつけろよ。